こんにちは、ベランダで育てているキュウリが他の植物をツルでつかんで枯れさせたことにショックを受けている、ハリー@福岡の経営者です。
今回このシリーズ第3話目です。すべてノンフィクションです。
未来を向いて話をする
ジミーとは、僕がサラリーマンをして、彼もサラリーマンをしているときにやり取りをずっとしていた。メールをしたり、今はなつかしきWindowsメッセンジャーを使ったりして、日々の何気ない話や仕事の状況など、情報交換をしていた。
ある日、僕は東京に出張で行くことになった。土日をからめることで東京滞在を伸ばし、僕はジミーと久しぶりに直接会った。日常的にやり取りはしていても、やはり顔を合わせて話をするのはよいものだと思う。
その時彼は平塚に住んでいて、泊めてもらうついでに一緒に飲みに行った。鶏料理がメインの雰囲気の良いお店で、カウンターで二人で座った。よく考えると、社会に出てから二人だけで酒を飲んで話すのは、これが初めてだったかもしれない。僕は、話し込むときはカウンターに座ることにしている。人は、お互いを見ている時よりも、同じ方向を見ながら話す方が色々と話しやすい。
「入社する前と入社後の話が違う」ジミー、悩む
やや元気がなさそうなジミーの口から出たのは、「実は社内で色々あって、入社前に予定されていたものとは別の職種になった」ということだった。
詳しく聞くと、元々はクライアントと開発現場を出入りするような営業職に就くはずで、本人もそれを希望して会社に入った。しかし、ジミーより先に入社してその職種に就いていた先輩社員が、会社を辞めてしまったのだという。会社としては若手を辞めさせたくないため、その職種を廃止して後から入ったジミーを現場(プログラマー)に配属した。
人事は、ときに温情的で、ときに冷酷に見える。僕は会社の経営サイドで日々起きることを目にして、経営者がどう感じ、何を考えているか間近に見ていたのでジミーに起きたこともよく理解できた。人事というのは、そういうもので、割り切れる部分とそうでない部分がある。結局は、会社の都合で社員が振り回されることも多々あるし、逆に、恵まれることだってある。
しかし、ジミーにとっては一事が万事であるし、自分のキャリアや人生にとって会社の決定が及ぼす影響は大きい。やるせない感じで話を聞いていると、やはり会ってみないとわからないことがたくさんあると思った。
リーマンショックがもたらしたもの
2009年9月15日、日本を、いや、世界を、ひとつの経済破たんが襲った。
「え?リーマンってサラリーマンのことで、サラリーマンが受けるショックのことでしょ?」
当時だったら笑えない話だが、数年後にそう言っている若い女性がいたと友達から聞いた。確かに、あの出来事は多くのサラリーマンに非常に大きな衝撃を与えた。
福岡で金融とは離れた業界で働いていた僕は、その大きなショックに見舞われることはなかった。会社の業績もほとんど変わらなかった。
しかし、ジミーがいたような、大企業を相手にしているIT企業にとっては死活問題だった。ジミーの会社だけではない、ショックを受けて徐々に立ち始めた不景気の波が、じわりと日本中を覆いかぶさろうとしていた。
ジミーのいた会社では、企業にプログラマーを派遣してシステム開発に従事させるビジネスモデルで成り立っていた。僕はIT系の業界のことをほとんど知らなかったので、ジミーから事情を聞いてはじめて知ったようなことばかりだった。
ジミーも大手メーカーの現場で働いていたが、リーマンショック後は契約が打ち切られ、本社勤務になった。本社勤務とはいえ、何か日常的に忙しいわけではない。単純に、クライアントの仕事がないだけの話だ。サーバ管理や社内の雑務を行い、時には何もすることがなく、無為に感じられる時間がジミーを通り過ぎていった。
僕が平塚に遊びに行ったのは、そんなときだった。飲みながらひととおり話を聞いたあと、ジミーの口からは「仕事をやめて福岡に戻ろうかと思う」という言葉だった。
人間ひとりの力ではコントロールしようもない、大きな変動に人は翻弄されてしまう。これまでの歴史の中で、有名・無名に限らず、幾多の人がその時代の波に飲まれ、人生を望む方向とは別の道へと変えていったのだろうか。言葉にできない哀しさが二人の間に流れていた。
「でも、今は辞めるな」
僕はその頃、勤めていた会社で中途採用の仕事にかかわっていた。会社自体はリーマンショックの影響を直接受けなかったものの、中途採用をしていると社会の状況が透けて見える。不景気によって早期退職制度の活用が増え、事実上のリストラなども平気で起きていた。誰もが知っているような企業から人材が多く流出し、調子の良い企業は以前なら会うこともかなわない人材を獲得できた。
リクルートのサービスを利用して、人材データベースにアクセスして当時見えてきたことは、30代や40代の多くの男性が年収200万円台か、時にはそれ以下で働いている地方の現実だった。もちろん、地方だけの話ではなかったのだと思う。雇用形態も派遣であったり非正規であったりした人ばかりが目についた。たまたまそのサービス登録者にそういう人が割合多かっただけの話かもしれない。そして、実際に面接して会ってみても、やはり正社員として採用するには難しいケースが多かった。僕は26歳、社会の厳しい現実を垣間見た。
より良い仕事、少しでも収入の多い仕事、安定した仕事を求める人の気持ちは、今ではとてもよくわかる。あのとき、彼らはチャンスにすがる思いで、遠い地からでもはるばる面接を受けにきたのだと後になってようやくわかった。社長は途中から会いもせずに「落としておけ」とだけ言って、別の用事に行った。チャンスなど初めからないこともある。選ぶ側がやはり強者になりうることが多いのだ。
ジミーの希望を聞いたとき、僕は僕なりに経験したことや自分の目で見たことをありのままに話した。転職をするには「キャリア(積み重ねてきたもの)」と「実績」がすべてだと伝えた。ジミーは働き始めてまだ1年半、文系初心者プログラマーということもあり、これと言ってPRできることもないように感じて転職は勧めなかった。
何より、今のままジミーが福岡に戻ったら、僕がPCの画面上を通して見るだけだった「データベース上の人」と下手をすれば同じ道をたどり、最悪の場合は、不景気もあいまって仕事も見つからず、非正規雇用のままで20代を過ごすことになるという嫌なイメージがあったからだ。
だから、僕は「もし辞めるとしても今のまま転職活動をして、次の仕事が見つかったら辞めればいい。今は、クビになるわけではないのだから、辞めない方がいい」とジミーに言った。ジミーは、色々と考えることがあったようだが、納得した風だった。
しかし、そんな話もむなしく、数ヵ月後にジミーは仕事を辞めた。そして、福岡に戻った。
(続く)