ハリーのタカの目ブログ

起業日記になりそうな予感

福岡で起業、4年目に入りました

どうも。

ハリー@福岡の経営者です。

ウェザーニュースって会社がAI入れてわりと細かく天気予報できるようになった、というのをテレビで見ました。

今日、別の団体が作ったアプリが思いっきり予報を外しました。

なので、ウェザーニュースのアプリに入れ替えました。どうなるだろ。

 

さて、本日10月23日は、僕が作った会社の設立日です。世間では、「設立記念日」とか「会社創立記念日」とかで、お祝いとかしたりするらしいんですけど、今も一人でやっている僕にとっては日付を見た瞬間に、「あ、そうか」みたいな感じでした。今夜はビールでも飲もうと思います(いっつも飲んでるけど)。

 

それで、毎年この時期になると1年を振り返ってブログ記事を書いていて、去年、おととしと書いた記事を読んで懐かしい感じになったので、今回も書こうと思います。なぜか口調が変わりますがご愛敬。

ちなみに過去記事。

harryike.hatenablog.com

 

 

harryike.hatenablog.com

 

今年で「4年目」に入ったところ。サラリーマンを辞めたのは6年前。はぇーな。そりゃ年取るわけだ。

 

やっぱりね

今年の9月、設立のきっかけとなったクライアントから

「来年は契約更新しません」

と告げられた。

そりゃないよ。お宅が契約するなら会社作れって言っていうから作ったのに。当初の活動内容に見合った見積だしたらさんざん減らすに減らされて、担当の人と「バイト代みたいなもんですね」と笑い合ったあの日はなんだったのか。

途中で担当者が代わって、「契約ではこういう約束だったんですけど」と言ったら

「なかったものとして考えてください」

と言われたり。

それでも頑張って、身を削りながら貢献できたと思っていたけど

「やっぱりね」

という思いだった。

 

起業するならビジネスモデルが重要

やっぱりねって思ったということは、前々からそうなるだろうと思ってたということ。さすがに、永続的な関係は難しいというのはわかっていたし。

担当者が代わってから、何となく切りたそうな空気は出していたし、去年、3年目に更新できたのは正直、奇跡だったかも。

契約を切る話のときに担当者の課長の方が

「いやぁ、私はすごくよくやってくださっていると思うんですけど、会社の方針として人員配置等も含めて…」

と一生懸命弁明されていたのだが、まぁ、この人は内にも外にも自分をよく見せたがるし、周りに対する評価を落とす言動も過去にあったし、この人の器で行くとそんなもんだよな、と。担当者交代による事情変更は、「仕事あるある」のベスト3入りすると思う。担当者はガチャ。こっちが課金するわけじゃないけど。

実際、やがて来るとは分かってはいたものの、最後通牒を突き付けられるとショックはショックで、しばらくふてくされていたのは事実だ。

しかし、色々書いたけど正直なところ、別にクライアントにも担当者にも恨みも何もない。仕事のレベル感も内容も、対価も、やがては捨てないといけないものだったし、逆に、何の実績もない人間を信用してくれて3年間仕事と報酬をくださったこと、そして、会社を作るきっかけを与えてくださったことには、感謝しかない。

「足を向けて寝られない」レベルかというとそうでもないけど(笑)、何か悪感情が残っている感じでもないので、今後も当たり障りなくお付き合いできるんじゃないかと思う。

そもそも、僕が立てたビジネスモデルが甘かったのだ。それに尽きる。一人でやることの限界だろう。次に新しく事業を始めるなら、徹底的にビジネスモデルを突き詰めて考え、議論し、起こりうるリスクを踏まえた上で、事業計画を実のあるものにするしかない。経験して、その重要性が真にわかったことは、今後の僕にとっても非常に重要な意味を持ったと思う。なんてったって、やってみないとわからないことだってあるからだ。

もっと言うと、薄々僕はそれに気づいていて、会社の名前や事業内容を広く設定していたのも事実だ。この3年間の経験を踏み台にして、ようやく会社を次のステージに成長させるところに来たのだ。3年、長いようで短かった。

 

事業計画っておいしいの?

僕は去年の10月末に、事業の現況を整理し、今後の見通しをつけるために事業計画を作った。多くの場合、事業計画は起業する前に作成する。なぜなら、融資を受けたり資金調達につなげたりするためだ。

僕の場合、裸一貫、何の後ろ盾もなく、多額の設備投資もなく、人を雇うわけでもなく、見栄を張るわけでもなく、雑草が芽を出すように誰に気付かれることもなくひっそりと起業した。

だから、事業計画なんてものもなかった。でも、さすがに2年くらい経過すると色々な経験や知見が溜まり、自分でもリソースや今後の展開がわからない複雑な状況になってきたので、いったん状況を整理しようと思って作成した。

いっちょまえに業績推移と今後の計画なんてものも作ってみた。おー、これが「絵に描いた餅」ってよく経営者の人たちが言うやつか、と思った。もちろん、現実離れした数字ではなくて「こうなるといいな」みたいな。

そして、今後の展開として、可能性のある事業について詳細に記述した。今後、こうなりそう、いや、なるといいな、みたいな。

つまり、過去と現状を踏まえた内容半分、夢と希望と思いが詰まったものが半分、「おいしいほかほかの事業計画書」の出来上がり。

 

え、まじで…?

事業計画書を作って、僕は何人かの懇意にしている人に書類を渡して、僕がどうなってるのか理解してもらうことにした。

その中には僕の親友も含まれていて

「これ、そのまま銀行持っていったら融資受けられるんじゃない?」と実際に経験のあるやつからもコメントをもらった。

もう一人は、一緒に色々と考えてくれて、その後の展開について逐一状況を確認しあえるようになった。仲間は大切だなとしみじみと思った。

他の方からは「こんな大事な内容を共有してくださってありがとうございます」とお礼を言われた。

なんかすごくいいことをした気分。

そして、事業計画書を作った直後の昨年の11月から、事態は急展開する。決して、狙っていたわけではなかったが、可能性のある事業が花開いただけだ。でも、そんなに速く実現するとは思ってなかった。これも、運だね。運。実力じゃない。

また、昨年10月ごろから温めていた新クライアントとの契約も今年の4月から実現し、半年間わりと大きくて重要な仕事をいただけた。僕がやろうと思っていたことだったので、とてもありがたかった。

その仕事が9月でいったん終わったのだけど、追加提案をしていて、受け入れられればまた仕事はできそうだ。

最後に、これも4年前からお付き合いのあった方が仕事をくださって、まとまった売上が4月に立った。これもでかかった。感謝感謝。

 

V字回復

そんなわけで、会社の2期目は赤字にしてしまったのだけど、色々な方とのご縁や運のおかげで会社3期目の業績はV字回復を実現し、事業計画書の業績見込みを1期早く前倒しで実現できる結果となった。

この展開には僕も親友も驚いたし、いやー、世の中何があるかわからないもんだなと思った。

まさしく、勝ちは勝ちの不思議あり、負け負けの不思議なし。

 

安定などない

とはいえ、別に今の仕事が永遠にあるわけではないので、会社が永続的に安定するような基盤を築けているわけではない。そんなもの、あるんだろうか。

それに、やはり年間契約がなくなることは、財務的には痛い。もちろん、トレードオフとして時間と色々な厄介ごとは無くなるのは良いことだ。

なくなる契約ほどのものではないが、ご縁がご縁でつながり、この10月からは新しい仕事もできた。これもまったく偶然の出来事から生じた種なので、狙ってない。ほんと運しかない。

 

社運をかけた一大事業

ところで、僕は2018年が始まる前に、「来年は勝負の一年」にすると決めていた。いや、そうなるだろうと、何か予感していた。

そして実際、仕事をめぐって色々な展開があり、一喜一憂し、紆余曲折が今も生じているさなかだ。それだけでも、僕は十分に勝負があったなと思っていたのだけれども、年間契約が切られる話があった今年の9月以降、事態はさらに急展開を見せた。

僕は今年の春くらいから、あるテーマについてとことん深掘りしていた。そのテーマは、もちろん僕の仕事が関係することだし、僕がこれまでずっと悩んできた問題に対する一つの解決策、つまり、一筋の光明に見えた。

最初は、何気なく見つけた言葉だった。ふーん、くらいの感じで検索したら、日本ではまったくといってよいほど説明がされていなかったし、その枠組みをもとに取り組まれてもいなかった。

元々は海外の文献で見つけた言葉だったので、試しに海外の記事を調べていくと、およよ?と思った。その文献に触れられていた説明とは異なるレベルのことが書かれていて、アカデミックな研究も海外ではかなりされていることがわかった。日本での研究例は、ゼロ。

その瞬間、僕の中で何かがピンときた。

これは、僕がやるしかないんじゃないか。いや、この問題について悩んできた僕こそがやるべきだ、と。

それから、海外の第一線の人が書いた記事を読みあさり、色々な取り組みを知り、研究論文も読み、日本で水面下で展開されている事例も踏まえた上で、僕の会社のサイトに記事をアップした。とある人の集まりの場で、発表したりもした。

日本では体系的に詳しく説明されている記事が皆無なので、そのキーワードで検索すると、今のところ会社のサイトが上位にヒットする。実は、この手法は過去にこのブログで学んだことだ。誰も調べていないこと、書いていないことを、素早く日本語でまとめて公開する。そうなると波が来た時に最初に乗れる。当たり前のことだが、先読みができないと難しい。

僕はそのテーマを日本で共有していくことを考えた。色々な場で紹介していくと、時代の流れもあってか、多くの人が関心を寄せてくれることがわかった。何せ、誰も否定できない考え方だからだ。かといって、当たり障りのない、口当たりの良いだけの話でもない。きわめて実務的で、組織を革新・改善するための枠組みだ。

それに、今まで僕のやっていることをみんな理解しにくかったようだが、この枠組みを通すと、あら不思議、みんなよく理解してくれるようになった。これはつまり、経営者レベルの人にわかりやすく伝えられるということだ。

そして、記事を公開してしばらく後、色々な経緯を経てある会社のキーパーソンの目に僕の書いた記事が留まった。そこからの展開が恐ろしく早く、協働研究・開発のために勉強会が開かれ、参加者の方がクライアントに提案し、採用されるにまで至っている。

もちろん、まだなじみがない言葉ではあるし、経営者の中には理解が及ばない人もいるかもしれないし、実務的なプロセスとして確固たるものがあるわけではないから、色々な難しさはあるが、これからは時代の流れも後押しして、日本では主流になると思っている。というか、そうする。これは、僕の会社の社運をかけた取り組みなのだ。

 

展開構想

心理学者のアドラーは「人の悩みはつきつめると人間関係の悩みに行き当たる」と言った。

僕は「働く人の悩みは、組織の悩みに行き当たる」と思っている。

そこで僕は、見つけたテーマについて取り組み、紹介した人の反応を見て、考える中で、「このテーマは僕だけのものにしてはいけない」と思うようになった。

人の役に立つ良い考えであれば、それは、もっと世のため人のために共有される方がいい。それが組織をもっとより良くして、日本社会が、そして、そこで働く人たちが幸せになるのなら、そうあるべきなのだ。

そう考えた結果、僕はこのテーマを会社の手から離すべく、より公益的な社団法人を設立してそこにテーマを預けることにした。一般社団法人は、自社ビジネスにつなげるために作る我田引水型のパターンが多い。しかし、このテーマを一人では実現できないことがわかりきっているので、僕はより多くの協力者が必要だと思っているし、主旨に賛同してくれる方たちとメリットが分け合えるのならば、本望だ。

懇意にしている司法書士の方に主旨を説明して、設立の手続きをお願いしたところ

「私が手がけた中で、公益性の高い一般社団法人の例を初めて見ました。ぜひ私も応援させてください」

とありがたい言葉をいただいた。

ゆくゆくは、研究所を設立し、日本におけるアカデミックな研究を支援して、より実効性と根拠のある取り組みを公開できるようにしたいと思っている。そして、そのための布石はすでに打ってある。

 

仲間が欲しい

こうなってくると、一緒に働いてくれる仲間がいよいよ必要になってきていて、会社の取り組みと、社団法人の取り組みと、とやっていると段々と手が回らなくなってきている。それに、時間と手間をかけてやるべきことも多い。

僕の会社のインターン生や大学時代の友人に一部仕事を頼んだりしている。まじで助かっていて、ほんとに仲間って大事だなと痛感。仕事量としては、本格的になってきたらこりゃまずいな、という段階に来ているように思う。僕一人では何もできない。が、僕はとにかく一歩を踏み出す。

しかし、先立つものはやはり「お金」。

どうすっかなー、どうなるんだろうなー、というのが現状。

 

インターン生について

 現在、7名の大学生が僕の所でインターンをやっています。

harryike.hatenablog.com

 

最初に来たゲイバー通いの子は、ついに2年になりました。よくこんなおっさんに付き合ってられるわな(笑)そんな彼女もあと半年で卒業なので、今からどうやって送り出そうか、僕に染まりすぎてすぐに会社辞めたいとか言い出すんじゃないかとか、色々心配している(それはないと思うが)。正直、もうこの子はいっぱしに仕事ができる。ほっといても勝手に進められるし、進まないときは僕にちゃんと相談する。大学生でこのレベルってすごいと思う。この子を採用する会社はまじで僕に感謝してほしい(何なら教育代も受け取りたい)。

そして、去年受け入れた6名は1年が経過。振り返ると、みんなかなり仕事出来るようになったな、と思う。実際に社会の人に対して成果を出すということに責任もって取り組み、実際に評価も報酬もいただくなかで、かなり成長したと思う。やり取りをしていても、その辺のサラリーマンよりもよほどしっかりしてる。たぶん、入社したら同期からは頭一つ抜け出ると思う。もちろん、その後は本人の努力次第なんだけども。ほんと、この子たち採用する会社、僕に感謝しろ(教育代!)。僕は喉から手が出るほど彼・彼女たちが欲しいが、今はその余裕がない。

いずれにしても、彼らから得られるものは多く、彼らが望む限り続けようと思う。新しい学生の加入もありかな。タテの流れが続くと良いんだけど。

 

変わるもの、変わらないもの

さて、来年の今ごろは果たしてどうなってるんだろうか。

何にしても考えてばかりでも仕方ないので、

勉強する

人と会う

これを継続してがんばっていこう。

また来年、楽しみに。

4年間ニートだった幼なじみ@30歳が社会復帰した話-その⑥「何もかも失った僕」

こんにちは。福岡の経営者ハリーです。

まず、大阪の地震で被害に遭われ、今も不安の中過ごされている皆様に心からお見舞い申し上げます。

2005年に起きた福岡西方沖地震。たまたま東京から福岡に帰省していた僕は、見事に地震にぶち当たりました。たまたまその時間、その時に、そこにいた。もしかしたら側にあった壁が崩れていたかもしれない。その後の東日本大震災熊本地震、今回の大阪の地震。偶然が織りなす人生の無常さを思うと、胸が締め付けられる思いがします。

人生には自らが創る部分と、人知を超えた領域による影響があり、その2つに翻弄されながら生きていくことを、私たちは素直に受け入れるだけなのでしょうか。

今回、ジミーの物語を再開させるにあたり、僕たちの人生をめぐって渦巻いてきた色々な思いや感情をかみしめていました。そのような折の地震に、自分が今生きていることについて、思いを馳せざるを得ません。

 

 本題に入り、1年前にスタートさせたこの話の続きです。

harryike.hatenablog.com

 

お山から転げ落ちた僕

僕が社長になってから、何か生活が一変したかというと、特に大きな変化はなかったと思う。寝るときに枕元に置く会社携帯がいつ鳴り出すかもしれないとか、社長として周囲にどう接するか気を遣っていたとか、社外からは色々なお祝いをもらったり、業界内で注目されたり。

人を大きく変える可能性があるのは、金と権力と地位だと思う。そのことを常々見てきた僕は、自分がそうならないようにとにかく注意した。

だけど、僕の中で、やはり何かがおかしくなっていたのだと思う。そのうち、自分が自分でないように感じ始めた。

もちろん、何も無いのにそんなおかしなことにはならない。会社のトップに立つと色々な事が「見えすぎる」。会社の正体を知った思いにもなったし、オーナーがいることの意味も頭ではなく体で理解した。

僕はなぜたった4年で社長になれたのか?

簡単な話だ。僕はことごとく上司を押しのけてきたからだ。それくらい、様々な事にチャレンジして、会社経営に影響を与えた。自慢じゃないが、僕は人一倍会社経営のことを勉強したし、社内の人間関係構築に努めた。他にもいろいろな理由があるだろうが、後は「口が堅い」ことも良かったと思う。僕は社内の事を見聞きしても、余計なことは言わなかった。口が軽い人は、信頼されない。

僕は常々問題意識や目的意識を大切にして仕事に臨んできたので、それも良かったのかもしれない。後は、仕事の成果の質を上げるだけだ。

そんなこんなで、社長になると僕の上にいるのはオーナーだけになった。今まで上司とケンカしてきた僕は、遂にオーナーとケンカする羽目になったのだ。決して、勝てないケンカだったが。

「ちょっと待って、ケンカせんで良くない?」

そりゃごもっともだ。

だが僕は、若かった。その一言で済まされるかわからないが、僕とはほとんど無関係のところで起きた出来事により、「そうせざるを得ない」状況に僕は陥った。

その出来事は、会社を揺るがすような大事件だったが、それは僕が社長になる以前から進行していた話で、僕は領域外のこととして関われなかった。あのまま普通にサラリーマンをやっていたら、僕はそのまま今もあの会社にいたかもしれない。

しかし、人生そんなに甘くなかった。僕は大きな渦に、巻きこまれてしまった。そして、そこでの身の処し方を間違ったのは、僕の若さだと思う。

最終的に、ある問題をめぐってオーナーと対立してケンカを始めた僕は、やがて体を壊した。心も壊れていたと思う。これは自分じゃないなと変に冷静に思ったし。だんだん食事もできなくなり、車の運転もしない方がいいなと。食べて飲んでは戻すし、胃腸がやられてんなぁ、みたいな。

もう無理だな、社内外の人たちにはこれ以上迷惑はかけられない、早い方がいい、と思った僕は辞表を用意して経営会議に臨んだ。もう出来てしまった溝は埋まらない。オーナーからは言われもないことを散々言われ、暴言や嫌味を吐かれ、もう傷つく心もどこかへ行ってしまって冷静になっていた僕は、翌朝から会社に行くのを辞めて、人づてに辞表を出した。それで僕の会社人生は、終わった。

お山に登っていた僕は、文字通り砂上の楼閣であることに気づかず、あれよあれよという間に転げ落ちた。

他人に人生を預けると、こうなってしまう。

もう、サラリーマンなんてやりたくないな。

僕は、ろくにものも考えられない頭で、ふと思った。

 

辞めた後の話

会社に行かなくなるとどうなるだろうか?

かりにも社長が辞めるとなると、問題のレベルが半端ない。色々な人から電話もメールもあったが、僕は全て無視した。下手にかかわれば、その人にまた迷惑をかける。

会社と完全に縁を切るために所有していた株を売り、そのお金で残っていた数千万円の借金を返し、僕に関連する物を引きあげ、それで終わった。

未練は特になかった。

ただし、そこから約5年間、僕の人生における闇が始まった。思えば、長かった。

 

ジミーとの再会

会社を辞めた僕は、家に引きこもった。

何の身分も、地位も、会社の看板や名刺も、固定的な給料も無い、正真正銘ニートになった。

親を心配させたが、それもやむを得ない。僕は独身だったので、特に困ることもない。しばらく、拾ってきた猫と戯れて遊んだり、ネットサーフィンして過ごした。

そして3日が過ぎて、僕は少しずつ思考力を回復させてきた。

「これから、どうしよう」

先を決めずに会社を辞めて何もなくなった人が、誰もが思うことだろう。

最初に思ったことは、僕は「自分にはニートは向かない」だった(笑)

ニート生活に3日で飽きた僕は、近所の図書館に勉強と読書に出かけた。とりあえず体調を整えることが優先で、その間に資格勉強でもしよう、と。

そのうち、僕は浪人時代にジミーや友達と一緒に図書館で勉強したことを思い出し、ジミーに連絡を取ることにした。

近くのラーメン屋で久しぶりに再会して、僕は会社を辞めたことをジミーに伝えた。

ジミーと話をしているうちに、僕は、自分がジミーと何も変わらないな、と思った。

僕は何を偉そうにしてたんだろう、と。色々なことを申し訳なく思った。口を出すなら、自分が何かしろよ、と。

結局、何もしていなかった自分をあざ笑った。

僕はなんだか気持ちが楽になり、ジミーともまた前のような関係を続けるようになった。

 

どん底の中で、つかんだ光

僕はその後、しばらく勉強を続けて、一段落ついた時点で、以前会社の関係で仲良くなった人に連絡を取ることにした。

その人はたまたま同い年で、仕事の話をするために時々飲みに行ったり、プライベートの付き合いもあった。

僕は、会社を辞めてから思い知ったことがある。

それは、サラリーマンやサラリーマン社長をしていたときに、いかに会社の看板や名刺がモノを言っていたか、ということだった。

それでも個人的に僕の事を気にかけてくださる人がいて、それが何よりの救いだったし、今も感謝している。

久しぶりに会った彼に、僕は現状を打ち明けて、何とかしたいと伝えた。

彼は、快く応じてくれて

「ハリーさんに紹介するならこの人しかいない」

と、ある方の携帯番号を教えてくれた。

その紹介された方との出会いから、僕のこれまでの光と闇の5年間がスタートする。

そして、その間にジミーにも大きな転機が何度も訪れる。

 

次回、この物語はクライマックスに入る。

1年半、大学生インターンを受け入れてて思ったこと

どうも。

まさかの昨年10月以来の投稿、福岡で経営者をやっているハリーです。

ニートの話どうなったんや」ーそういうツッコミもあると思います。実は、自分で書いておきながら僕もものすごく気になっていて、早く先を書かねばと思いつつ「235日前」で物語が止まってる。最近ジミーにまた新たな展開あった。

いかん。これはいかん。

 

 

今年の流行語大賞は「再発防止」で決定(?)

ていうか最近、「再発防止」の文字ばっかり、テレビとか記事とかで見る。

「再発防止」ってなんや、と。

またどこぞの官僚が今年の流行語大賞生み出したんかな。

再発防止で何とかなるんやったら、誰も苦労せんなぁ(いや、それで官僚は実際に苦労してるんやろうけど)。

いい大人が「再発防止」て言っとけば何とかなるような社会の風潮を作りだしてる気がする。

でも、ほんといったいどうしたら再発せんのやろ。

今回はそういう話。

 

インターン生、絶賛活動中

2016年の11月くらいから大学生のインターンを2名受け入れて、1名は昨年春に就職(※)。昨年10月にまた新たにメンバーが加わって。今、全部で7名。すごいことだ。

※ 先日、彼の就職先がTwitterのトレンド入りしていたので連絡とったら、まさかのTwitter公式アカの「中の人」をやっていたらしく、まじで笑った。

初期教育期間を抜けて、彼・彼女らは実際のお客様相手にサイト制作の仕事に取り組んでいる。

単に「サイト制作」って言っても、簡単な話ではない。

僕は、助走の部分の話をつけて、ある程度の方向づけを行うだけ。後の、詳細を詰めたり、お客様とやり取りしたり、進捗したり、そういうのは全部学生のチームにやらせている。

普通のインターンだったら、社員が言うとおりに手を動かすだけだったり、言われた部分のコーディングやったり、そんな感じかもしれない。

でも、僕はそんなのインターンじゃないと思ってるし、実際の仕事ってそんな話では済まない。

AIだIoTだなんだって言っても、仕事には「割り切れなさ」があるのが常だ。つまり、仕事には往々にして「異様に幅広いストライクゾーン」が存在していて、時々「この角度、このスピードでしかストライク取れない」というゾーンになったり、さらに、その外側に「果てしないグレーゾーン」があって、またその外側に「あ、これはいかんよな」っていう「レッドゾーン」がある。

うちのインターン生は、僕との関係の中で恐らく「割り切れなさ」を感じているし、お客様とのやり取りの中で「くっ、正解は一体どこにあるんだ…?」ともがいているだろうと思う。

毎日顔を合わせるわけではないし、普段のやり取りは全部LINEでやって、月に1~2回顔を合わせる。

最初の頃は毎週顔を合わせていたけど、それなりの関係が出来て、クライアントとのやり取りをするチームが編成されてからは、自律的に進められる体制を構築して、後は学生の思うままにやらせている(セルフマネジメント乙)。

もちろん、本人たちが「やっている」と思っているか、「やらされている」と思っているか、そこは僕はよくわからない。ただ、一般的なインターンだったら途中脱落者がいるのが常で、何も言わずに消えていったり(僕はこれを「神隠し」と呼んでいる)、なんやかやと言い訳をして辞めるのが普通だろうと思う。半年以上経っても、辞めないのはそれなりに理由があるのかなと思う。実は、「本心から辞めたい」と思っていたらどうしよう、と時々思うこともある。

それで思い出した、そういや神隠しが1名いたんだった。何となく最初から想定はしていたし、別にいいけど(どこかで良くないと思っている自分がいることも確かだが)。

で、話を元に戻すと、昨年10月から20歳そこらの、7名の学生たちと付き合って(もらって)きて、正直なところ、やってて良かったな、と思うことばかりだ。

 

「いい経験」はお互い様?

僕はさっきも書いたけど、学生たちにあれこれ細かい所まで指示・命令したりすることはない。サイトのつくりや見映え、言葉づかいについては対外的なことを意識して、かなり細かく注文するけど(実際、かなり細かい)、それ以外の部分は「まずはやってみよう」でやっている(と僕は思っている)。

例えばメールを書く場合や、客先への訪問マナーなど、調べる必要があれば「調べといたらいいよ」くらいで済ませる。後は、経験が教えてくれる。もちろん、それが当たり前だと思ってしまうと変な癖になるので、どこかで学び直す必要があるのかもしれない。でも、「実際の経験」というベースがあって学ぶのと、何もないところから盲目的に学ぶのでは、全く違う。

さらに、学生たちにはどんどん失敗してもらっている。

仕事にはたくさんの「落とし穴」がある。そう、僕は気付いているが、彼・彼女たちはまったく気付いていない落とし穴がたくさん存在するのだ。もちろん、僕自身が気付かないものもある(おい)。

パタナーリスティック(家父長的)に、あれやこれやと過保護に介入して、落とし穴にはまらないようにすることもできるかもしれない。

でも、僕自身の経験から言って、「失敗」の先には「成長」しかないと思っている。時には、「諦め」につながるパターンもあるだろう。

よく、「失敗↔成功」という二項対立の図式で語られるが、これは間違っていると思う。

失敗の対義語は、「達成」、「怠慢」や「劣化」である。つまり、「成長・学習・諦め←失敗↔成功→達成・怠慢・劣化」という、一歩進んだ図式で物事を考えた方が、精神衛生上良いし、すんなり受け入れられると思う。

「勝ちは勝ちの不思議あり、負けは負けの不思議なし」という言葉が僕の心に残っているが、結局、若いうちにどんどん失敗した方がいいと思う。そうしたら、年を重ねてからも失敗できる。これは、これまで何度も転んだ時に、必ず何かを掴んで起き上がってきた僕だから言えるのかもしれない。だから、インターンのみんなにもどんどん転んでほしいと思う。

大切なことは、失敗したりつまずいたときに、僕からあれこれ言われることではないし、僕が手を差し伸べて起き上がらせてもらうことでもない。「何が問題だったのか」「これから何を気を付ければ良いのか」「同じ失敗をしないためにはどうしたらいいのか」、そういうことを「考える」ことだと思う。

先日も、インターン生がある企業とのやり取りで制作納期を「1ヵ月」で設定していたところ、結局まったく思うように進まず、納期が1ヵ月以上先になりそうという事案が発生した。IT業界ではよく聞く話で「日常茶飯事だぜHAHAHA!」だが、「よく聞く」ということと、「自分たちがやらかす」では話が全く違う。

「もう金はかかってるし、時間もエネルギーもかかってるし、これ、いつ完成するんだよ…」

そういう割り切れなさの中で、「もしこの何もしていない中で固定的な給料が発生してたら?」「クライアントに損失が発生してたら?」という問いを自問自答すると、段々社会人らしくなるんじゃないかと思う。インターン生には、仕事が完成したらそれなりにクライアントから対価をいただいて、お小遣い程度かもしれないが払うつもりだ。完全なタダ働きではない。実際、一昨年から働いてるインターン生には成果分を払っている(バイトの方が稼げるとは思うが)。

もちろん、金がすべてではないが、商売ってのは金抜きには語れないし、金と信頼関係を媒体として成り立つ代物なので、そういう意識を早くから持っていると、社会人になってから苦労しないだろう。その意味で、こんな失敗がたくさんできて許される環境はなかなか無い。いい経験できてるんじゃないかな(自画自賛乙)。

一方で、僕がもし固定的な給料を払っていたとしたら、僕は何も言わないで済ませられるだろうか? これは非常に核心に迫った問いかけだと思う。社長は社員に給料を払う。それで成果がなかなか出なかったり、うまく進んでいなかったりすると、イライラする。いつになるのか、どうなってるのか、一体何をやっているのか。

実際、僕は給料を払っていなくても、クライアントとの関係でかなりやきもきした。どうなってるかなーと気にしては待ち、気にしては待つ。ちょいちょいつついてはいたものの、ある時を境に、それも止めた。とにかく気長に我慢しようと覚悟したのだ。別に会社がつぶれるわけじゃない。クライアントからクレームが出たら、最悪、僕が謝ればそれで済む。

で、いったん覚悟を決めると、色々と気持ちが楽になったのは事実だ。何というか、インターン生がやることを、かなり引いた所から見れるようになった。失敗についても、寛容に受け止められるようになった。以前の僕ならあまり考えられない。そういう意味で、僕も色々と学んでいるし、良い経験をしているのはお互い様だなと思う。

 

「ルールは破られるためにある」― たかが日報、されど日報

それで、たまたま今日も発生した事案。

インターンを開始したとき、「単にインターンやって終わり」ではいけないので、その時学んだことや気付いたこと、行動したことを、後々振り返るメモとしてブログに書いて、日報代わりにするということを約束した。きっと就活にも生きるよ、と。

で、「インターンの翌々日までに書いて連絡すること」とした。これは一つのルールだ。

ルールというものは、非常に厄介なものだ。僕はルールがあまり好きではないから、人をルールで縛ることをしたくない。

けれども、ある程度の方向性を保つためにはルールが必要なのも理解できる。それに、インターン生のためにもなる。これならいいだろう、ということで、ルール第一号だ。

実際、日報なんて社会人はみんなその日のうちか翌日までに書くだろう。日報がないところもあるかもしれないが、自分の足跡を残す意味では非常に重要な行為だと思う。

しかし、思ったとおり、これがなかなか守られない。

簡単な話だ。僕が「ブログ書いてね」と言えば、インターン生は「やばい」「忘れてた」と思って、書く。

でも、それって何のためのルールだろうか? 僕がルールか?

僕は目覚まし時計としてジリジリと騒音を鳴らしたくなんかないし、そんな人生まっぴらだ。できれば僕は何も言わずに、勝手に、積極的に書いてほしい。でも、ルールは誰かが言わないと機能しないのか?

それでも、僕が言うのを我慢していると、ちゃんとルールを守って発信するメンバーもいる。こういう子がいるととても助かる。一人が書けば、それを皮切りに次が続く。リーダーがいて、フォロワーがいるのと同じだ。

でも、フォロワーが途中で切れることもある。これってなんだろう? ルールを守る人もいれば、そうでない人もいる。これは意識の問題かもしれないし、他に理由があるのかもしれない。

僕は組織づくりのプロとして、この問題にはかなり真剣に考えている。医者の不養生、灯台下暗し、みたいな話だ。

もしかしたら、「ブログを日報代わりに書く」という仕組みが間違っているのかもしれないし、インターン生が自分から「書きたい」と思うような仕掛けが足りないていないのかもしれない。

僕は、どちらかというと今まで好き勝手に自由に生きてきた人間なので、基本的にはその環境の中で最大限できることをやろうとしてきた。より良い方法があればルールも破るし、利用できるものは可能な限り利用してきた。したがって、インターン生の態度に物足りないな、と思うことも時々あるけど、僕の価値観を押し付けることは出来ない。それはブラック化と同じだ。

だから、この問題はこれからインターン生とも話し合って、解決しないといけない話だと思う。

たかが日報だが、じゃあ、もっと大きく、重要な仕事になったら、今のままで済まされるのか? やはり、されど日報。

それと、スピードも重要だが、「質」の問題もある。速いことも重要だが、限られた時間の中でどれだけ「質の高いアプトプット」ができるか、についても、やはり真剣に取り組まなければならない。

インターン生たちのブログを読んでいて、失敗をしたチームとそうでないチーム、失敗をしたチームの中でも、メンバー間の質の差、に僕は気付いている。

これは、何だろうか? とても面白く、そして、これからも考える価値のあることばかりだと思う。

えっと、つまり、「再発防止」って具体的にどうするんや!と、そういう話。

ということで、インターン生のみんなには感謝。

福岡で起業、3年目に突入しました

ハリー(経営者@福岡)です。

この10月で会社が3期目に入りました。ちょうど1年くらい前に、起業して1年経ったときのことを書いてて、読んでみたら色々と感慨深かったので今回も書こうと思います。

 

harryike.hatenablog.com

 

いかん、赤字出した・・・

第1期はがんばって黒字にして、少しですが税金を払いました。

でも第2期は、完全に失策、経営者としては恥ずべきことに赤字になってしまいました。原因はわかっていますので、今期である第3期は黒字にします。

なぜ黒字にできるかというと、そういう計画を立てたからです。1年の収益の見込みはすでに立っていますので、お金の使い方について気を付けるのみです。第2期は、どんだけがんばっても難しかった。この言い訳は、もう通用しません。

 

事業計画っぽいもの

それで、これはいかんと思って事業計画っぽいものを作りまして、ようやく完成しました。第5期くらいまでの数値目標を立てて、その実現に向けた内容を書くわけですが、これがつらい。苦しい。でも、楽しい。ありもしないような夢物語もあるし、いや、がんばれば行けそうという感じでもあります。

去年の記事にも書きましたが、仲間をつくる必要があります。というか、仲間を強烈に欲してます。いつまでもドラクエ1じゃいけないんです早くドラクエ2くらいにならないと。そしてもっとがんばれば、ドラクエ3とか5とか仲間を選べる段階に行けると思うんです。最強パーティー作りたいんです。

ドラクエがわからなければ、ワンピースでルフィがまずはゾロに出会う感じです。でも砂糖が入って踏みつけられて泥だらけになったおにぎりを食べるようなやつなんて、いないんですよ(笑)万が一いたとしても、ちゃんとした船がない。その点ルフィはエラい。船なくても、「こいつは」と思ったゾロを半ば脅迫してとにかく仲間に引き入れ、その後もどんな仲間が欲しいかちゃんと考えてそれを実現していくいつまでも陸で修行してないで、自分の道を求めて船出するどんなボロ船でも、海に出れば旅は始まるわけですね。

しかし、恐らく仲間を強制的にでも引き入れるには、まだ1年以上かかると思っています。それまでには腕をびよーんと伸ばせるようにしたいですね。

 

変化は必ず起きる

良い意味でも、悪い意味でも変化は必ず起きます。これまでの1年は、どちらかというと良い変化が多かったように思います。

僕がこれだけは続ける、と思ってやっている2つのことは

勉強する

人と会う

です。

これが何となくつながってきた感じがします。実際、実を結んだものもありますし、この先大きく花開くといいな、と淡い期待を持たせる事案も出てきています。

 

目の前のものごとがどうなるかなんて、誰にもわからない

今、目の前に見えている物事や、昨日初めて出会った人とこの先どうなるかなんて、他人はおろか、当然自分でもわかりません。

僕の感覚では、年間100人の新しい人と出会って、それが自分の仕事や友人関係に発展する確率は1人いるかいないか、くらいです。別に異業種交流会とか行って無駄に名刺配ってるとか、そういうのはありません。

けれども、サラリーマンを辞めてから出会ってきた人たちのことを思い返すと、100分の1という確率は、外れてないなと思います。特に、大人になってから出会った人と、友人関係になるなんて難しいですね。ほんと、小学校~大学で出会った友人たちとの関係はありがたいです。何者にも代えがたい貴重なものです。

恐らく、もう少し僕がやることがコアな感じで狭まってくれば、色々な関係を作りやすいのかもしれません。

それから、やはり30代の僕が仕事の話をするとなると、それなりの年齢の方々が多いわけです。そうなると、すでに利害関係があって、家族とかコミュニティとか自分の世界とか、そういうのがもうできちゃってる人ばかりなんですよね。

それで、一緒に仕事しようぜ、みたいな勢いに発展できる人がどれくらいいるかというと、もう20代後半とかを超えてると「カネ」の話抜きには、何も進まないわけです。家族養っている人もいるわけですし。その人の人生とかキャリアとか考えない経営者なんて、ありえない

おかげさまで僕は人に恵まれているのか、一緒に船に乗ってほしいなぁと思える人がそれなりにいます。乗ってほしいけど、ゴムボートじゃなぁ(苦笑)とお互い思ってしまうわけですね。乗ってほしいと言ったわけじゃないからわからないですけど、少なくとも僕はそう思ってしまう。これじゃぁいけない。

 

若い人たちとの出会い

それで、さすがにゴムボートで大海原には行けないけど、危なくない範囲で人を乗せて航海に出ることはできるよな、と考えるわけです。

それが、第2期から取り組んできた「大学生インターンの受入」です。

去年の後半から2人受け入れてたのですが、以前書いたように1人は今年の春に無事就職が決まって、卒業しました(大学は卒業せんかったけど)。

 

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それまでも多少大学生とのつながりはありましたけど、僕にとっては毎回が新鮮でした。そして、今もやっぱり人と一緒に何かやるのって楽しいな、人が何かできるようになって成長するのっていいな、って思って楽しんでやってます。

最近になって、また新たに受入を頼まれてフタを開けてみたら大学2年生6人を面倒見ることになりました。僕にとっては特に何かしらの金銭的な利益があるわけでもないですし、むしろこちらから時間とお金が一方的に出ていく感じです。

けど、もうやると決めたら僕はとことんやるし、僕の信念は「ムダなことなんて人生何一つない。ムダと思うのも、ムダにするのも自分だけ」なので、そこから最大限得られるものを得て、これまでやってきたのが僕なんで、今はそれでいいと思ってます。

それで、何回かやってみるとやっぱり大学生たちの反応は見ていておもしろいし、彼・彼女たちが日報代わりに書いてくれるブログを見てると、またすごく新鮮で清々しい気持ちになれるんですね。こうなると、彼らと毎回会うのも楽しみになってきます。この先、どんな風になるのかなぁと思いながら。

さらに、↑の記事に出て来るゲイバー通いのノンケの女の子は今も僕のところで続けてくれてるんですけど、弟妹ができた感じで今までとは違った横顔を見せてくれる。そういうのもいいなぁ、と。はよちゃんと組織つくらんといかんなぁと思わせてくれますし、僕の思いを新たにさせてくれるだけで、今回受け入れた価値はもう十分あり過ぎるくらいなんじゃないかと。

ちなみにその先輩の女の子はまだ大学3年生ですけど、とある上場企業の選考でいいところまで行ってて、もしうまく行けば来月には内定がもらえる段階に来てます。彼女だったらやれるだろうと僕は思っていますが、人生はおもしろいもので、どちらに転んだとしてもそれが後になってみて「あのときは、やっぱりあれでよかったんだな」と、笑って手を振れるようになるんじゃないかと思ってます。

社会人の方で、よく「若い人が何考えてるかわからない」「接し方がわからない」という人がいます。僕からしたら、それは単に相互理解を怠ってるだけだと思うんです。忙しいから仕方ないかもしれないですけど。

僕は基本的に、相手のことを散々聞きまくって、自分の考えを少し話します。若い子たちはアホじゃないし、聞く耳も持っている。だから、この人が何を言おうとしてるのか、理解しようとする。そういうのが繰り返されると、お互い何となくわかってくる。もちろん、全部はわかりません。むしろ、全部わかる必要はない。ただ、周りの人はそういうチャンスを自ら手放してるんじゃないかと思っています。そして、そう言ってる人たちも、若いころそう思われてたんだろうと思います。相手のことを理解して、こちらも理解してもらう経験が深く刻まれていると、それが連鎖すると思うんですね。

 

アウトブリーディングのチャンスを逃さない

人間関係で言えば、新しい関係の中で、定期的にお会いして深堀りしていく機会が最近増えたなと思います。学生だけでなく、社会人も。

今、月の会合が数えると4つくらいあって、そのうち1つは3年続けてる僕主催のものなので、今年になって3つ増えました。

2つはまったく新しい人たちとの集まりなので、時間をかけてあたためていくわけですが、残りの1つは以前から付き合いのある方たちなのでもっと突っ込んだ話ができます。

いずれにせよ、僕は「これ逃したらいけないな」という嗅覚がなんとなくあって、その会合を始めるチャンスを自分から作りに行った気がしています。そういう場は、自分が独りよがりにならずに済む場です。それから、異なる価値観を持っている人と会うことで自分が磨かれます

僕は少し前から「アウトブリーディング(異系交配)」という言葉を提唱してて、環境の変化に強くなるには外からの刺激や血が必要で、自分の囲いの中でずっとやっていくのは危険だと思っています。

サラリーマンの人は往々にして人間関係が社内で完結しがちで、これは「インブリーディング(同系交配)」にしかなりません。ベテランの経営者やできるサラリーマンの方ほど、やはり色々なところに出て行って何かしらを持ち帰っているのは、理にかなっていると思います。

これは、謙虚に続けて行かないとな、と思っています。それらの会合がどう発展するか、それもわかりませんけども。また1年後、振り返った時に面白い展開になってそうなんですけどね。

 

それでは、また一年後に、振り返りのことを楽しんで書けるようにがんばっていきます。

4年間ニートだった幼なじみ@30歳が社会復帰した話-その⑤「登り詰めた僕が見たもの」

こんにちは、ハリー@福岡の経営者です。

気付いたら間がだいぶ空いていました。久しぶりにこのシリーズの続きを書きます。

 

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登り詰めた僕

サラリーマンの真の願いはなんだろう。

出世すること?

給料が上がり続けること?

会社がつぶれずに自分が定年まで勤められること?

できれば楽して働くこと?

仕事のやりがいが得られること?

しがらみから離れて起業か独立して自由にやってみること?

そんなものは人によるだろうと思う。価値観は十人十色だから。僕がサラリーマンとして願ったことは組織を動かすことだった。自分なりに組織に影響を与えてよりよい将来目指す。その経験があればよい。給料などは後からついて来ればいい。そんなことを思って、僕は力を発揮すべき時は発揮し、特にやることがなければビジネスの勉強し続けた。

その後、色々なポストを経て僕はその会社の社長になった。入社してから5年目のことだった。血縁もない中小企業で社長になることは、あまり聞かない話ではあるが、必ずある。会社が、過渡期を迎えていたところで、僕が様々な経緯を経て抜擢されたのだ。

僕は単なる雇われサラリーマン社長になるつもりはなかったので、経営に責任を取るつもりで数千万円の借金をして会社の株を買うことにした(給料は跳ね上がったが、手元に残るお金は以前とほとんど変わらなかった)。

 

登ったところから見たもの

社長というポジションから見える組織の内外の景色は、これまでとは違った。いや、違うと僕が錯覚したのだろうと思う。これまで普通に接してきた社員の人たちも、一歩退いたところで接したり、僕自身が微妙な距離感を感じていたと思う。

だからと言って、急に僕が居丈高になったり、威張り散らして怒鳴ったりすることはなかったと思う。もしかしたら、周りの人は何かしらの変化を感じていたかもしれないが。

いずれにせよ、その頃の僕は自分のことでとにかく一生懸命で、周りのことを忘れていた。ジミーのことも、もうあまり考えることはなかった。

ふと思い出したとしても、彼にかける言葉など思いもつかなかったと思う。僕はその高いところから、彼を見下ろしていただけだからだ。

若かった僕は、自分の力にウェイトを置きすぎていたのだと思う。もちろん、自分ができないことを周りの人に頼んだりお願いして、仕事を進める感覚はあった。自分ひとりでは何もできないのだから。

だが、キャリアについては自分の責任でつかみ取って行かなければならないのであって、何も動けないのはダメなんだよと思っていた。この時点で、僕は色々と勘違いしていたのだと後で気づくことになる。

 

家の中に閉じこもり続ける、ジミー。

お山の大将になったと錯覚した、僕。

 

そこに見た目の大きな違いこそあれ、本質的な部分では何も変わらなかった。

僕とジミーは、心の奥で「孤独」を感じていたのだ。

(続く)

4年間ニートだった幼なじみ@30歳が社会復帰した話-その④「ブチキレた僕」

こんにちは、ハリー@福岡の経営者です。
とても心温まることに、豪雨により被害を受けたのではないかと色々な方からご心配をいただきました。幸い、私の住んでいるところは特に大きな問題もありませんでした。福岡や大分の中でも特に被害の激しかった地域にお住いの方や被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。

このシリーズの続き、第4話目です。すべてノンフィクションです。  

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先の見えない再就職活動

ジミーは、あこがれの東京での仕事を辞めて福岡に戻った。小学校からの仲間として今もつるんでいる友達たちは、「福岡に帰ってきてよかったやん」と言ってジミーを歓迎した。僕もジミーとよく会えることになったのは、嬉しかった。

しかし、大切なのは次の一歩をどう踏み出すかということだった。友達とはいっても、何か具体的に世話をできるような力を持った人間はジミーの周りにはいない。僕も無力だった。自分の道を決めるカギを握るのは、当然、その本人であるはずなのだ。だけど、そのカギ穴は一体どこにあるのだろう。だから、それを探すのも本人次第で、自己責任といえばそれでおしまいかもしれない。

「これからどうすると?」という僕の問いに対して、

「福岡のIT企業でも受けてみようかな…」定まっていない表情でジミーは答えた。

僕はサラリーマンで平日は忙しかったし、夜は疲れて特に何もすることなく眠っていた。そんな毎日だった。ジミーのことは、もちろん時折思い出して連絡を取ってみる。お互いの家は歩いて5~6分のところだから、顔を見に行った。

「就活どう?」

「うーん、企業を探しよるんやけど、なかなかね」

以前ジミーと話をしたときから、数ヵ月が経っていた。僕はジミーのマイペースぶりをよく知っていたし、それで何とかなるならいいかと思っていた。

今ならわかるが、人が生活リズムを整えて規則的に何かをしない限り、数ヵ月を経過するというのは普通ではなかったのだ。玄関先で少し言葉を交わしたりする程度で、近くで顔を見て色々な反応を見ながら話すわけではない。僕はその先の展開を甘く見ていただけだった。

そうこうするうちに、ジミーの口から「警察の試験を受けようと思う」という話が出た。企業への再就職がどういう経緯をたどったかはよくわからなかった。もしかしたら受けてみたかもしれないが、書類で落ちたのか、面接でダメだったのかもしれないし、そもそも受けなかったのかもしれない。

 

チャンスに二度目はない

当時、26歳の僕はキャリアのキの字も理解していなかったと思う。それに、「自分の力で自分の人生は何とかしなければならない」と思い込んでいた。ジミーが決めたことならば、後はそれを応援すればよかったのだ。

僕は、僕なりに支援になればと思って、その頃始めたジョギングにジミーを誘った。自分でも笑えるが、「いい男にならなくちゃ」と思ったことがジョギングを始めたきっかけだった。別に目指せイケメンとかリア充万歳とかそういう話ではなくて、身体を鍛えておくことは先を考えた時に悪くないと思っただけだ。そして、いい男は身体を鍛えるものだと思っていた。

暑い中、走るのはとてもきつい。最後の方は顔をくしゃくしゃにさせて、もうこんな思いはしたくないと思いながら必死に身体を慣らす。しかし、走ることで僕は日ごろ自分の中に溜まっている何もかもを、流し出すことができると感じていた。とにかく、僕は土日にひまさえ見つければ走った。

警察試験には体力テストがあると聞いていたので、僕はジミーを誘った。家に閉じこもっているのも不健康だし、走り慣れて体力をつけなければテストもパスしない、一石二鳥だと思った。

だが、僕はここでもミスをした。高校卒業以来ほとんど運動習慣がない人間を相手に、いきなりジョギングというのはハードルが高すぎたのだ。ジミーは健気に、僕の誘いに乗って一緒に走った。それはよかった。しかし、少しして「ひざが痛い」と言い始めた。それはそうだ。

僕たちはジョギングをやめて、10年以上前に歩いていた通学路を再び二人で並んで歩いた。子どものころは、大人になってそんな風景が訪れるなんてまったく思いもしなかった。

僕は一週間後に、またジミーを誘った。次は反省を生かして、少しゆっくり走ったり、ウォーキング程度でやろうと思っていた。でも、玄関先でジミーは「自分のペースでやるけんいいよ…」と言って今度は走らなかった。隣にジミーのお母さんもいたのだが、残念そうな顔をしたお母さんの表情は今も忘れられない。僕は、それからジミーを誘うのを止めた。

ジミーはその後、やはり体力テストで落ちて警察官にはなれなかった。そして、何も起きないまま数年が経過した。その間、僕とジミー、そして共通の友達たちは中学時代の恩師と時折一緒に飲む機会があり、そこで顔を合わせる程度だった。でも、もう誰もジミーの今の状況について触れなくなった。

 

ブチキレた僕

ある日、同じように中学時代の恩師と仲間内で飲むことになった。その日はなぜだったかよく覚えていないが、かなり酒が進んだ。僕は酔うとよく話すようになる。話しにくいことを話したりもする。その日、特にジミーの将来のことを話すつもりではなかったが、何かの拍子に話題がそこに移った。僕は、結局そのことをずっと気にしていたのだろう、ここぞとばかりに話をかぶせた。

バイトをするわけでもない、就活をするわけでもない、今後の展望があるわけでもない。ないない尽くしでこの先どうするんだ、お父さんとお母さんに申し訳ないと思わないのか、とほとんど説教だった。それまでのジミーの煮え切らない反応に僕は我慢できなかったのだ。細かいことはもう覚えてないが、僕はすごい剣幕でとにかく怒ったのだと思う。

後で一緒にいた友達に「ジミーが怒られようのに、先生も俺らも、しゅんとしとったけんね(笑)」と言っていた。

だけど、それも僕の若さだったと思う。怒ったからといって、何が解決する?何が変わる?一番何とかしたいと思っていたのはジミーだったし、もう何をどうしたらよいのかわからずに苦しんでいたのも、他ならぬジミーだったのだ。

誰もがこのままではいけないと思っていながら、誰もどうすることもできなかった。

そしてまた、時が少し過ぎた。僕は、勤めていた会社で抜擢されて、会社役員に上り詰めていた。

(続く)

4年間ニートだった幼なじみ@30歳が社会復帰した話-その③「リーマンショックがもたらしたもの」

こんにちは、ベランダで育てているキュウリが他の植物をツルでつかんで枯れさせたことにショックを受けている、ハリー@福岡の経営者です。

今回このシリーズ第3話目です。すべてノンフィクションです。  

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未来を向いて話をする

ジミーとは、僕がサラリーマンをして、彼もサラリーマンをしているときにやり取りをずっとしていた。メールをしたり、今はなつかしきWindowsメッセンジャーを使ったりして、日々の何気ない話や仕事の状況など、情報交換をしていた。

ある日、僕は東京に出張で行くことになった。土日をからめることで東京滞在を伸ばし、僕はジミーと久しぶりに直接会った。日常的にやり取りはしていても、やはり顔を合わせて話をするのはよいものだと思う。

その時彼は平塚に住んでいて、泊めてもらうついでに一緒に飲みに行った。鶏料理がメインの雰囲気の良いお店で、カウンターで二人で座った。よく考えると、社会に出てから二人だけで酒を飲んで話すのは、これが初めてだったかもしれない。僕は、話し込むときはカウンターに座ることにしている。人は、お互いを見ている時よりも、同じ方向を見ながら話す方が色々と話しやすい。

 

「入社する前と入社後の話が違う」ジミー、悩む

やや元気がなさそうなジミーの口から出たのは、「実は社内で色々あって、入社前に予定されていたものとは別の職種になった」ということだった。

詳しく聞くと、元々はクライアントと開発現場を出入りするような営業職に就くはずで、本人もそれを希望して会社に入った。しかし、ジミーより先に入社してその職種に就いていた先輩社員が、会社を辞めてしまったのだという。会社としては若手を辞めさせたくないため、その職種を廃止して後から入ったジミーを現場(プログラマー)に配属した。

人事は、ときに温情的で、ときに冷酷に見える。僕は会社の経営サイドで日々起きることを目にして、経営者がどう感じ、何を考えているか間近に見ていたのでジミーに起きたこともよく理解できた。人事というのは、そういうもので、割り切れる部分とそうでない部分がある。結局は、会社の都合で社員が振り回されることも多々あるし、逆に、恵まれることだってある。

しかし、ジミーにとっては一事が万事であるし、自分のキャリアや人生にとって会社の決定が及ぼす影響は大きい。やるせない感じで話を聞いていると、やはり会ってみないとわからないことがたくさんあると思った。

 

リーマンショックがもたらしたもの

2009年9月15日、日本を、いや、世界を、ひとつの経済破たんが襲った。

「え?リーマンってサラリーマンのことで、サラリーマンが受けるショックのことでしょ?」

当時だったら笑えない話だが、数年後にそう言っている若い女性がいたと友達から聞いた。確かに、あの出来事は多くのサラリーマンに非常に大きな衝撃を与えた。

福岡で金融とは離れた業界で働いていた僕は、その大きなショックに見舞われることはなかった。会社の業績もほとんど変わらなかった。

しかし、ジミーがいたような、大企業を相手にしているIT企業にとっては死活問題だった。ジミーの会社だけではない、ショックを受けて徐々に立ち始めた不景気の波が、じわりと日本中を覆いかぶさろうとしていた。

ジミーのいた会社では、企業にプログラマーを派遣してシステム開発に従事させるビジネスモデルで成り立っていた。僕はIT系の業界のことをほとんど知らなかったので、ジミーから事情を聞いてはじめて知ったようなことばかりだった。

ジミーも大手メーカーの現場で働いていたが、リーマンショック後は契約が打ち切られ、本社勤務になった。本社勤務とはいえ、何か日常的に忙しいわけではない。単純に、クライアントの仕事がないだけの話だ。サーバ管理や社内の雑務を行い、時には何もすることがなく、無為に感じられる時間がジミーを通り過ぎていった。

僕が平塚に遊びに行ったのは、そんなときだった。飲みながらひととおり話を聞いたあと、ジミーの口からは「仕事をやめて福岡に戻ろうかと思う」という言葉だった。

人間ひとりの力ではコントロールしようもない、大きな変動に人は翻弄されてしまう。これまでの歴史の中で、有名・無名に限らず、幾多の人がその時代の波に飲まれ、人生を望む方向とは別の道へと変えていったのだろうか。言葉にできない哀しさが二人の間に流れていた。

 

「でも、今は辞めるな」

僕はその頃、勤めていた会社で中途採用の仕事にかかわっていた。会社自体はリーマンショックの影響を直接受けなかったものの、中途採用をしていると社会の状況が透けて見える。不景気によって早期退職制度の活用が増え、事実上のリストラなども平気で起きていた。誰もが知っているような企業から人材が多く流出し、調子の良い企業は以前なら会うこともかなわない人材を獲得できた。

リクルートのサービスを利用して、人材データベースにアクセスして当時見えてきたことは、30代や40代の多くの男性が年収200万円台か、時にはそれ以下で働いている地方の現実だった。もちろん、地方だけの話ではなかったのだと思う。雇用形態も派遣であったり非正規であったりした人ばかりが目についた。たまたまそのサービス登録者にそういう人が割合多かっただけの話かもしれない。そして、実際に面接して会ってみても、やはり正社員として採用するには難しいケースが多かった。僕は26歳、社会の厳しい現実を垣間見た。

 より良い仕事、少しでも収入の多い仕事、安定した仕事を求める人の気持ちは、今ではとてもよくわかる。あのとき、彼らはチャンスにすがる思いで、遠い地からでもはるばる面接を受けにきたのだと後になってようやくわかった。社長は途中から会いもせずに「落としておけ」とだけ言って、別の用事に行った。チャンスなど初めからないこともある。選ぶ側がやはり強者になりうることが多いのだ。

ジミーの希望を聞いたとき、僕は僕なりに経験したことや自分の目で見たことをありのままに話した。転職をするには「キャリア(積み重ねてきたもの)」と「実績」がすべてだと伝えた。ジミーは働き始めてまだ1年半、文系初心者プログラマーということもあり、これと言ってPRできることもないように感じて転職は勧めなかった。

何より、今のままジミーが福岡に戻ったら、僕がPCの画面上を通して見るだけだった「データベース上の人」と下手をすれば同じ道をたどり、最悪の場合は、不景気もあいまって仕事も見つからず、非正規雇用のままで20代を過ごすことになるという嫌なイメージがあったからだ。

だから、僕は「もし辞めるとしても今のまま転職活動をして、次の仕事が見つかったら辞めればいい。今は、クビになるわけではないのだから、辞めない方がいい」とジミーに言った。ジミーは、色々と考えることがあったようだが、納得した風だった。

 

しかし、そんな話もむなしく、数ヵ月後にジミーは仕事を辞めた。そして、福岡に戻った。

(続く)