ハリーのタカの目ブログ

起業日記になりそうな予感

4年間ニートだった幼なじみ@30歳が社会復帰した話-その②

 こんにちは。梅雨入りしたからといって天気予報も見ずに傘を持って出て、雨にだけはフラれない経験を繰り返しています、ハリー@福岡の経営者です。

 

ふと思い立って、このシリーズを先日始めました。すべてノンフィクション・実話です。無事に最後まで書けるよう、お付き合いいただければ幸いです(笑)

harryike.hatenablog.com

 

ジミー、あこがれの東京へ

ジミーが就職したIT会社は、地元の官公庁相手にシステムを組む上流の立ち位置にあって、その県ではNo.1の存在だった。ジミーがよく言っていた「会社は見栄を張るのが好きだ」。建物は立派なものを好み、アクセスも良いところを選んでいた。

東京支店は浜松町からすぐ近く、東京タワーが屋上から眺められ、周囲の街並みが一望できるような好立地の高層ビルにオフィスを構えていた。ジミーは、本社でしばらく研修を受けたあとに満を持して東京配属になった。

地方企業に就職する学生は、基本的には色々な事情から地元志向が強い。本人の希望にもよるだろうが、親の意向もある。手元から離れさせたくないと思うのだろうか。ジミーは、福岡には何の未練も見せずに東京を望んだ。ご両親も福岡にルーツはなかったし、「かわいい子には旅をさせよ」で本人の好きにさせたのだろう。ジミーは、上に年の離れた姉が二人いて、待望の長男だったのだ。ただ、なぜジミーが福岡以外の何のゆかりもない地方企業に就職できたのかというのは少し説明が要る。

もともと、会社が将来的に福岡に拠点を構える計画があり、その将来要員として人事が戦略的に採用を行ったのが原因だ。福岡は特に地元志向が強いので、地方就職への採用は難しかったと思うが、ジミーは「東京に行ける」と思ってアピールしたのがはまったのだろう。2浪はネックだったと思うが、意欲が勝った。

そして東京での生活を心のうちで色々と思い描いて、ジミーは働きはじめた。

僕は東京から福岡へ

一方、そのころ僕は福岡にいた。東京の大学を出てから、やや特殊な仕事を経験したあとに福岡へ戻った。転職しようと思い、仕事をやめたのだ。24歳、何も怖くなかったし、失うものもなかった。ただ、この道をずっと進むことは自分の望む人生の将来像とは違うと感じた。この文章を書いている今も、あのとき自分の道を選んでよかったと思っている。職場が悪かったのではないし、ブラックでもない。今も当時の上司とはやりとりがある。単純に、僕は自分の人生を生きようと決めた。

30半ばになった今であれば、色々な人に「やめてもいいけど、次の仕事を決めてからやめたほうがいい」とアドバイスするところだが、僕は何も考えていなかった。キャリアという言葉も知らなかったし、本能的に自分の道を選んだのだ。

福岡の実家にもどり、転職活動をしていたが、別に土地にこだわりもなく(僕は福岡という土地を冷静に見つめている)、東京で仕事をしようかなとも考えていた。しかし、たまたまのご縁で福岡の会社に拾ってもらい、僕はそこで様々な経験をさせてもらう。最初の仕事にせよ、その会社での経験にせよ、僕の社会人としての土台はそこで築かれた。とても感謝している。

大学ではビジネスのことを何も学ばなかったし、最初の仕事も民間ではなかったので、会社の仕組みや売上とか利益とか、今では当たり前のこともよく理解していなかった。会社に入ってからは目にすることや耳にすることが何もかも新鮮で、会社の動き方やもうけの仕組みはおもしろかったので進んで勉強した。

とはいえ、僕も順風満帆だったわけではない。中小企業は波風に翻弄される小船のようなものだし、狭い世界に色々な人がひしめき合って成り立っている。まさしく会社は多様性にあふれていたと思うが、合わない人は合わないし、経営側が何を考えているのかコアな部分ではわかりようもない。それで人間関係や雰囲気、仕事を干されたこともあったりしてずいぶん悩んだものだった。

その後、僕は海外勤務をさせてもらったり、社長直轄の部署で自由に立ち回らせてもらったり、色々な経験をした。社内では僕の存在は理解されにくかったかもしれないが、僕は色々な部署に顔を出して先輩とよく話をしていたおかげで、組織を横断的に動き回ることができた。そんな折にかかわったのが、採用の仕事だった。

最初は中途採用を人材採用媒体を利用して、面接などに加わらせてもらった。採用する側と、採用される側から見える風景はこうも違うのかと思った。応募する側は情報の非対称性をなくし、見えないフィルターをいかにくぐりぬけていくかが大切だと思った。また、会社はひとりを採用するのに何百万、場合によっては数千万というお金をかけて投資をする。その重さに見合った採用をしなければならないため、人を見るには慎重に、しかし、感情の機微がからむのが人だから時にはダイナミックに動くことが必要なのだと学んだ。

ジミーと久しぶりに東京で会ったのは、その頃だった。日本の社会は、リーマンショックの衝撃で揺れ動いていたときだった。

(続く)